行き詰まる学習塾、予備校
「もはやお金と時間の無駄遣い」
将来賢くなる子は「遊び方」がちがう②
◆多額の塾代を払える裕福な家庭が有利ではなくなる
「だったら、どうやって塾選びをすればいいの?」という声が聞こえてきそうですが、冷静になって塾の必要性を考えてみましょう。
今までの詰め込み型の教育であれば、小学生のうちから塾に行かせる効果は多少なりともあったでしょう。講師から教えられたことをひたすら頭に叩き込めば、それなりに成績は上がります。中学受験をするのであれば、目指す学校にも合格できるかもしれません(それにより壊れてしまう子どもも多数いますが)。
だからこそ、「○○中学校○名合格!」といった誘い文句にたやすく騙され、塾に多額のお金をつぎ込むという構造が生まれたわけです。
この構造のもとでは、より多くの塾代を払える、経済的に余裕のある家庭のほうが有利になります。そういうお金持ちの家では、授業料の高い私立の中高一貫校に行かせながら、名門塾に通わせることもできます。東大生の家庭は総じて年収が高いという点にも、それは表れているのです。
このような経済格差と教育格差の連鎖を断ち切り、塾に行かせなくても大学受験を勝ち抜けるシステムをつくろうというのが、教育改革の根本的な狙いなのではないかと私は感じています。
◆塾に通わせるのは、お金と時間の無駄遣い
そこで、教育改革の指針に今一度、立ち返ってみましょう。これから教育に欠かせないのは、主体的に学ぶ姿勢でしたよね? 今、社会で求められているのは、自分で課題を見つけて、その課題の解決方法を模索して、自分なりの答えを出せる力です。
では、塾での勉強はどうでしょうか。与えられたテキストで講師が一方的に教え、与えられたドリルを黙々と解く。たとえその内容が教育改革に沿ったものであっても、「主体的に学ぶ」という肝心なところがすっぽり抜け落ちているのです。
テキストやドリルに頼った勉強では、発想力や創造力も伸びません。「あなたはどう思うか」を問う記述式問題を前にしたときも、そつはないけれど、面白味がない回答に終始してしまうように思います。
そもそも、「あなたはどう思うか」に答えられるようにする指導は、いったい塾の教室の指導ではどうして可能なのでしょうか。明らかにこれは「技術」ではなく、体験を基にした判断が欠かせません。
すると塾の仕事は体験を与えることになってしまいます。焚き火や博物館に連れて行く? 言うまでもなくそんなことで高額の授業料を取ることは不可能でしょう。
ハッキリ申し上げます。わざわざ塾に行かせるのは、必要な基礎学力を付けるため以外は、ほとんどの場合、お金と時間の無駄です。夏休み朝から晩まで長期間コース、週に5日コースなんて塾と託児所をはき違えているだけ。それなら自然観察キャンプ合宿や印象作文コースにでも通わせるほうがマシです。まして、子どもが嫌々通うのであれば、頭がよくならないばかりか、勉強が嫌いになってしまう可能性も高いのです。
とにかく子どもに与えるべきは、できるだけ「ナマ」の体験。
塾に消えるお金を貯めておけば、海外に留学させてやることもできます。そのほうが、はるかに子どものためになると思いませんか?
◆塾に行かせるくらいなら「ケイドロ」をさせよう
もし、新しい大学入試に対応できる力をつけたいのなら、たっぷり遊ばせること。これに尽きます。
自分が満足するまでたっぷり遊んだ子どもは、親が強制しなくても自然と勉強をするようになります。40年間家庭教師をしてきた私の経験から言っても、これは間違いありません。
念のためお断りしておくと、ここでいう遊びとは、テレビゲームの類ではありません。鬼ごっこや缶蹴りのような群れ遊び、木登りやザリガニ釣りのような自然の中での遊び、パズルのような知恵を使う遊びです。
ケイドロをご存じですか? 逃げる泥棒チームを警察チームが捕まえる鬼ごっこです。チームで勝ち負けを競うこの遊びでは、思考力も判断力も終始フル回転です。チーム内には足の遅い子もいますから、みんなで助け合わなければ勝てません。できるだけ「敵」を挟み撃ちして逃げられないように知恵を絞ります。
協働性や多様性なんて仰々しい言葉を使うまでもなく、子どもはこうした日々の遊びから、将来、必要となるさまざまな力を身につけていたのです。
学びの機会を奪ってしまったのは、知識に偏った入試制度です。その入試制度が変わろうとしている今、塾との関わり方も見直すときが来ているのです。
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